Tales of Mados & Ringos / 真・窓と林檎の物語
トップ窓と林檎 → 米の国の…1 1997.12.22

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真・窓と林檎の物語
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米の国の長者(前編)

※ この文章は電脳情報別冊に掲載されたもののため、一部表記が通常と異なります。

  五百年の昔、コロンブスが見つけた新しい大陸に広がる大きな大きな米の国。 今、その国には最も若くして米の国の長者番付けの一番上に名を記した男が君臨している。 コンピュータが人々の生活をこれほどまで大きく左右する時代を迎えた現在、 それらコンピュータとソフトウェアの完成度が人類全体、そしてその歴史へと与える影響は計り知れない。 その意味で、William H. Gates III(門様)は限りなく有罪に近い。

  では、どうして門様は非難されるべきなのであろうか?それは、微軟のアメーバのような経営戦略にある。 売れるものなら人のモノでも何でも貪欲に自分のモノとして呑み込んでから売りさばく。 そう、経営者としては崇拝されるかもしれないが、創造者としては敬遠されるべき人物なのだ。 以下、その罪状を具体的に見ていこう。

  まず、Windows95という世紀の駄作を世界中に数千万という単位でばらまいている。 AppleがMacOS 89と酷評したWindows95は旧版のWindows3.1に欠けていた多くの機能をMacOSから無断で拝借して作成したものだ。 にもかかわらず、マスコミ・報道各社はまるでコンピュータ界のルネッサンスのようにWindows95を絶賛し続けた。 彼らは全ての機能が微軟オリジナルだと信じて疑わず、すべてが新しい発明だと書き立てた。 もちろん、微軟から膨大な料の広告料を貰っていたからに他ならない。 確かに旧石器時代の遺跡であるMS-DOSや中世封建社会の遺物であるWindows3.1から見れば飛躍的な進歩であった。 が、それよりもいいものが遥か昔から存在していた事実を知る者にとっては、小賢しい宣伝文句に過ぎなかった。 表面上はうまく取り繕ってMacOSと同等の操作性を標榜していたが、 旧態依然とした内部構造によりWindows95は偉大なる駄作と呼ぶべき作品になってしまった。 95の予想外の完成度に安心したAppleのOS開発チームがその後に怠けてしまった可能性は否定できないし、 もしWindows95出荷の翌年にMacOS8が出ていれば、市場の地図は大幅に塗変わっていたに違いない。 実際、Windows95を買う前に製品比較をした熱心な購買者は、Mac購入に傾くことも少なくなかった (事実、Windows95発売後、Macの売上も急上昇している)。

  画面上に見える表面的な部分をMacOSから拝借したものの、諸悪の根源であるMS-DOSからの脱却が全く行われなかったため、信じられないような複雑怪奇なファイルシステムが生まれた。表面的にはファイル名の制限はかなり緩くなったものの、内部では以前としてむりやり8+3文字に押し込める方法をとっていた。2重のファイル名を持つ、このような極悪なインプリメンテーションは、およそ善悪の判断のできる人間なら絶対に避けるような類のものである。そう、それは確実に「悪」と呼べる方法なのである。というか、頭の正常なプログラマなら、それが将来に引き起こすであろう、時々発生する理解不能なマシンの挙動や数々の大惨事を容易に思い起こせるはずなのである。我輩も頭の正常なプログラマの気持ちは理解できるつもりなので、あの複雑怪奇なファイルシステムはなんとも理解しがたい。結局のところ、Windows95は「一筋縄でいく」小手先・表面上の変更だけに終止したというのが、手にとるようにわかってしまって、実にかわいそうなくらいなのだ。

  他にもこのような泥縄式の方法がたくさんある。 例えば、Windows95ではアイコンと拡張子は1対1に対応しているため、MacOSに慣れた人からしてみれば、 窮屈なことこの上ない。 画像ファイルにその中身を縮小したアイコンを張り付けるなどというMacにすれば造作もない芸当 (しかも、とても役に立つ)も、Windows95では見果てぬ夢物語に過ぎない。 あるいは、Windows95にはショートカットという機能がある。 これはUNIXのシンボリックリンクやMacOSのエイリアスを真似たものだが、それらよりも遥かに機能が限定される。 MacOSのエイリアスはリンクの元が移動しても構わないが、 Windows95ではパスのうち一部分でも変更があっただけで使い物にならなくなるし、 元がディレクトリの時に間接的に(リダイレクト先などのように)扱うことができない点で、 かなりの泥縄であるUNIXのシンボリックリンクよりさらに劣っているのだ。

  Macを真似してデスクトップを作り、パッと見は随分ましになったものの、 悪名高きMy Computerフォルダの再帰構造(コンピュータの中にコンピュータがあるという意味不明なメタファ)や、 いつまでもA:だのB:だのアルファベットがトラウマのように頭から離れない点、 ご自慢のスタートメニューでなぜか終了が第一のアイテムである点 (やはり門様は「早く終了した方がいいよ!」と言っているのか?)など、攻撃されるべき対象は腐るほどある。 "Plug & Play"でさえ、我輩は"Plug Undo Pray"だと思って疑わない。何 分間もだまりこくった後でハングしたり、 聞いたこともないような未知のデバイスを「発見しました!」と嬉しそうに報告してくる。 やっぱり、「差し込んで、(失敗したので)やり直し、(戻らなくなって)祈る」 というのがWindowsユーザのあるべき姿らしい。 それに記憶装置をボリュームはなくドライブで管理しているため、 頻繁に「ドライブの準備が出来ていません」と怒られる。準備できてないなら表示するなよ。虚しいだけだ。

  微軟サイドからのMacOSに対する非難は、OSがPowerPCネイティブでなかったり、 アプリのクラッシュでシステム全体も落ちてしまうことに集中している。 が、Windows95でも落ちる時はサクっと落ちるし、 UNIXなどのしぶといまでの頑強さに比べればともに足元にも及ばない。 また、Windows95が今だに16ビットコードなどという産業革命以前のコードを多く含んでいることを棚に上げて、 MacOSのネイティブ化率を語る資格などないのだ。 まったく、80386は今から何年前に発表されたと思っているのだ?

  さらにWindows95の迷作ぶりは続く。 動的ライブラリの管理が杜撰で統一性がなかったり(暗号のようなファイル名で理解に苦しむため)、 アプリのインストーラがあちこちのディレクトリに鬼のようにファイルをまき散らすため、 95におけるソフトのアンインストールをこの世でもっとも習得の難しい人間国宝級の技術にしている (たいていは、全てをインストールしなおす方がずっと早い)。 また、MS-DOSの呪いを受け継いでいるため、 ファイルやアプリケーションがその位置を示す文字列(パス)に陰に陽に依存している。 その結果、MacOSでは通常のファイルの移動と同じように全く制限のないアプリケーションの移動が、 Windowsではほとんど不可能と同義にになってしまった。 最初から「そういうもんだ!」と頭ごなしに教え込まれた者は何も疑わないことだろうが、 そんな制限が全くない世界が隣にあるという事実を知らないということはとても哀しい。 このように、Windows95は「複雑な内部の隠蔽」に明らかに失敗している点がMacOSと根本的に異なっている。

  だいたいMacOSを真似するなら真似するで、 Apple側が「こりゃ負けたわい!」と降参するような既存技術の昇華があれば良かったのに、 真の使い勝手の追求をさぼり、すぐに手に入る表面上の小細工だけを追い求めた点が、 Windows95における門様最大の汚点である。 そもそも、3.1で打ち止めにするはずだったWindowsが、WindowsNTの思わぬ売行き不調のため、 予定外の継続を余儀なくされた結果がWindows95であった。 高い値段でもっと売り込みたいWindowsNTの方はサーバ市場を確実に侵食していくも、 製品ラインアップや価格設定に疑問な点が多く、 さらにはザルの目セキュリティをあちこちから指摘されて悪い評判のもみ消しに躍起になっている。 微軟によると銀行のオンライン処理など、 絶対に停止してはならない「ミッション・クリティカル」な業務にはNTが最適らしいが、 そんなのはブレーキがついてない車で町中を飛ばすようなものだ。 よほど運が良ければ事故にあわずに走り抜けられるが、実際はほとんど不可能に近い。

  そう、彼等は平気で嘘をつくのだ。まあ基本的に、広告に嘘はつきものだ。 「日本一の安さ!」といったところで、3軒隣にもっと安い店があっても、 誰もその広告を裁判で訴え出たりしない。とっとと安い方で買うだけだ。 しかし、それも消費者に知識と経験が十分に備わっている場合の話。 他に頼れる指標がない場合、そして商品が難しいものであればあるほど、 消費者は売り主の言うことを信じるより他はない。 そして、その言葉には「嘘」が混じっているのだ。 果たして、コンピュータは誰でも使えるようになったか?ペンと紙にとって変わったか? 仕事が早く終って余暇が充実するようになったか?オフィスに紙が溢れないようになったか? 仕事の生産性が上がってみんなの給料がアップしたか? 答えは言うまでもない、すべて「ノー」だ。 個人的にはYesの人もいるだろうが、そういうことは他人には関係なく、自分自身がよく使った上で判断するのだ。 金を儲けたい売り主の言うことなど、 イメージに訴えるものはほとんど嘘に近いという心持ちでなければならない。 人を信じられないとは、まったく哀しい時代だ。

  では、とっとと後編へ進んで頂きたいもんである。

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