Tales of Mados & Ringos / 真・窓と林檎の物語
トップ窓と林檎 → 違いの分かる… 1997.08.25

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真・窓と林檎の物語
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違いのわかる市民

  さて、今回は林檎と窓のそれぞれのシステムを見抜く鋭い目を持った「違いのわかる市民」になるための心得である。 この内容は旧版では一番最初にあったんであるが、 どういうわけか新版ではこんなところに現れたんである。 しかも「男(または女)」といちいち併記するのが面倒だったので、 とっとと「市民」にしてしまった。 町民や村民、区民や島民、ついでにヒコクミンの人もいじけないで読んでもらいたいもんである。

  このコラムの基本方針として、個人計算機界の2大パラダイム、窓と林檎の系統のうち、 そのどちらかを一方的に賛辞したり非難したりすることはしない(予定である)。 そのような判断は読者自身で個人的にすることになっている。 他人の言うことを鵜呑みにせず、自らの知識と経験を基に判断を下すのじゃ。 このページとて、鵜呑みは厳禁なんである。 「ほんまにそうなんかいな?」と必ず疑ってみることが肝要だ。 そうやって、一日も早く「違いのわかる市民」になってもらいたいもんである。 でもって、ここに取り上げないパラダイムのマシンを使っている人も、「人の振り見て我が振り直せ」だぞ。

  さてさて、ようやく本題に入るんであるが、 この高度文明化社会の今日において、窓と林檎の両者、 そんなに違うもんなんであろうか?大多数のマスコミどもは

  • 「操作感において林檎の優位性はもう存在しない」
  • 「窓は初心者でも30分で使えるようになる」
など、林檎不利と申しておる。 さらには、林檎会社は特に最近、迷走の度を極めており、 会社内外でも様々な憶測が乱れ飛んでいる。 現状は全て林檎に対し逆風であるかのように見える。 しかし、今一度考えて欲しい。 「コンピュータは既に家電製品になったのか?」と。 その答えは明らかに「」である。 人々がコンピュータに望むこと、 コンピュータを使ってやろうとしていることが現状のままである限り、 永遠にコンピュータは家電製品にはなり得ない。 テレビやビデオ・電子レンジや冷蔵庫と、 コンピュータの間には圧倒的な量的相違がもたらす根本的な質的相違があるのだ。 何?難しすぎてわからんって? まあ待つのじゃ。慌てる乞食は貰いが少ないというだろが。 ようするに、コンピュータを使って成し得ることの可能性は、 通常の家電製品より圧倒的に大きいということなのだ。 ちょっと難しい情報科学用語をいくつか使ってみると、 こういう相違はコンピュータが「順序機械」であったり、 「有限の内部記憶」を持っていることに起因する (ここらへんの各用語は今後のコラムで解説される予定である)。 また「入力シンボル」や「内部状態」も家電製品より桁違いに大きい。

  例えば、テレビに入力できるのはチャンネル選択やボリューム調整くらいが主な信号だが、 コンピュータに対しては2次元平面を自由に滑走する「ねずみ」やら100程のスイッチを持った鍵盤など、ほとんど無限に近い種類が入力可能と言える。 さらに、テレビのチャンネル選択ボタンはいつ押そうともチャンネルが変わる(=その機能だけに使われる)が、 ねずみのボタンはいつ押すか、ねずみがどこにある時に押すかで、 押し方は同じでも全く働きが異なるのだ(これを「文脈に依存する」という)。 こういう理由で、コンピュータの利用法が現在と大きく変化しない限り、 コンピュータは家電製品とは成り得ないのだ。 つまり、圧倒的な量的な相違が、結果的に家電製品と一線を画すコンピュータと言う機械を特徴付けている。 そして、コンピュータは有史以来、人類が手にした最も自由度の高い機械なのだ。 そのあまりの自由度の高さゆえ、人々にとっては便利でもあり、脅威でもあり、 厄介でもあり、楽しみでもある。 また、その自由度の高さは、表面は似ていても中身の異なる数々のコンピュータを生み出すこととなった。 我々が目にしているのは、コンピュータの無限に近い可能性のなかのほんの一握りの実例に過ぎない。それがこの物語の主役(というより、舞台か)、窓と林檎である。

  で、どういうわけか、いきなりファイルシステムの話を始めるんである。 操作系統において、ファイルシステムが非常に重要であるから、ということにしておこう。 林檎以外の大多数のファイルシステムでは、ファイルにはデータの本体しか含まれない。 それに対して林檎では、なんと太っ腹なことに一つのファイルに「データ」と「リソース」の2種類をもれなくペアでプレゼント中なのだ(う〜む、データとリソースにはうまい訳が思いつかん)。 これは期間限定のキャンペーンではない。いつでもそうなのだ。 ひっひっひ、こいつはいいぜ! この考え方の違いは根本的にかなりの決定的相違をもたらす。 林檎ではワープロの文書ファイルが自分の素性(生まれや育ち、身長・体重や住所、年齢に至るまで)をよ〜く知っているのだ。ついでに「顔」(アイコン)のことまで知っている。 さらには生みの親であるアプリの連絡先まで知っているとくれば、 感心するより他にない。 しかも同じアプリで古いのと新しいのがあれば、自動的に新しい方を選ぶという親切ぶり。 なんと、ありがたや。 こういう点は、仙人のように"Simple is best."を体現している単系とは非常に対象的である。単系では質素な生活のために、ファイルがいちいち「自分がなにか」なんてことまで情報を持っていない(本体のデータ部分に書いてあることはあるが)。そんなことは使う側がちまちまと必死に管理するのだ。もちろん、ファイルに顔はない。 ただ、名前だけで区別するのだ。

  微かに軟らかな窓達約百も旧石器時代の遺物である円盤操作系統の後を継ぐ由緒正しき系統であるからして、 ファイルシステムにおける「リソース」という概念はほとんど風前の灯火である。 ファイルの種類は隠し子と呼ばれる「拡張子」なる悪名高いシステムに基づいて判断される。 この隠し子なるもの、普段はなるべく表沙汰にならないよう門様もいろいろと苦心しているという、非常に後ろめたい非運の物語を秘めている。 アプリはそれぞれ隠し子を持っているのだが、同じ名前はみんな顔が同じなのでなかなかに不気味だ。 サリーちゃんの弟か、お前ら! と書いてたら賢い読者の一人から

「サリーちゃんの弟はカブ1人で、 3人いるのはよし子ちゃんの弟達だ」
という鋭〜い指摘があった。 全く面目ない。その通りである。 さらに
「カブはサリーちゃんの弟のふりをしてるが、実は家来なのだ」
という細かい指摘もあった。どうしてみんなサリーちゃんにそうまでこだわるのであろうか。 というわけで、とにかく、隠し子というシステムはタコなことこの上ない方法なんである。 隠し子としてこの世に生まれて来たならまだいいほうで、世に出ないうちに闇へと葬り去られた水子達の怨霊が夜な夜な窓際に現れて悪さをするそうである。 ほんと、はやく水子供養しないととんでもないバチが当たるぞい。

  ちなみに、林檎ではファイル名とその顔には何の関連もないので、 例えば画像ファイルにその画像の中身を縮小した顔を張り付けることが出来たりして、 ファイルの操作や整理整頓の際に便利な事この上ない。 こういう便利な環境に慣れた目からすれば、窓際における人々の苛酷な労働状況は心中察してなお余りあるものである。 さらには風雅に理解のある林檎かじりなら誰もが経験する、 "sexy_woman.jpg"と言う名前を見つけて喜び勇んでダブルクリックしたら、 「へっへっへ、引っかかったな!」と大声で叫ぶ音声ファイルだったり、 "doc.gif.txt.html.jpg"というファイル名など、 しつこい攻撃も思いのままである。 こういう風雅な遊びを満喫できないとは、窓際族は哀しいものよ。 これは全て「なんでもおまかせ」林檎のリソースの成せる技なのだ。

  こういう便利な点を見習わずして林檎の環境を追求した窓達約百の方針はやはり間違いであった。 バットを振らずしてホームランを打とうとするようなもんである。 バットを振らなくても運が良ければフォアボールで一塁へ行けるかも知れないが、 それだけで試合に勝とうとするのは虫が良すぎるんである。 肝心な問題(=解決が難しい問題)をただ先送りしているのでは、 旧国鉄用地売却みたいに子孫に負の遺産を押しつけているようなもんである。 窓達はシェアが大きいだけに、これが人類全体に与える影響、総合的な損失は計り知れない。

  というわけで、こういうことを一つ一つ理解して、 早く「違いのわかる市民」になるのだぞ。 あれ、今回はオチがないな。ま、次回に期待して下され。

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